2012年10月30日
2012.8月ドイツ・ポーランドの旅
6年ぶり、懐かしのポーランドへ
8月29日(水)~9月9日(日)12日間の旅
フランクフルト空港での迎え




航路 ・JR茨木からリムジンで関空へ
・フィンランド航空で関空からヘルシンキ空港へ
※関空からのルフトハンザドイツ航空ダイレクトは
欠便となり、成田まわりしか飛んでいない
それが9月7日に復活とは!! なんと間が悪い
・乗継便でフランクフルトへ。16時間所要。
小さい写真はクリックしてね
8/29 ナタリアのマンションでディナー



東日本大震災で来日の予定が延期
親夫婦と二組で来日の予定をしていた2011年の春
3.11突如の地震と津波が日本をおそった
それにもまして福島原発の爆発、放射能漏れは
日本を、全世界を震撼させた
日本から外国の人は散りぢりに逃げ去り
列島すべてが放射能に包まれるのかと
その当時、世界の人は思っていたらしい
数年前に癌を患った父のため、来日は当然延期
うちの孫へもこちらへ避難しなさいとメールがくる
実際そのころはどこまで被害が伸びるのか
誰にもわからなかった......。
1年も過ぎ、淋しさがふくらんだときナタリアからメール
弟チェシュウの結婚式に出席せよとポーランドに招待
嬉しいけど、ためらった......しかし、行くことにした
こんな機会はあるもんじゃない
本物のカトリックの結婚式だ~!!
ポーランド訪問記
ドイツ・フランクフルト・ポーランドの旅(8/29~9/9)
風車が遠くに点在する、旧東ドイツ地域を車で国境越え




8/30
朝出発 ハイウエイ8時間の旅は延々と丘また森と続き
遠くには可愛い中世そのままの村がときどき見える
フランクフルトからドレスデンを通り抜ける街道
ブロッツワフへ向けポーランドに入る国境の橋を渡る
EU連合加盟国間は、国境越えもフリーである
国境は川のラインでパスポートチェックなし
懐かしのカトビッツェ・ティヒに到着
両親の待つ、カトビッツェ・ティヒの街はヨーロッパの不況の
影響も感じられない高度成長の真っ只中にあった。
ドイツ資本の大きなスーパーマーケットが進出している。








1997年私が描いたチェシュウはそのとき小学生
1993年夏、日本へ初めて来て、我が家にホームスティした
ナタリアとその家族リリアナ、チェスワフを訪ねる。
これで4度目。彼女の家族や友人も4度我が家を訪れ
この付き合いは20年近くになる。
この度は弟チェシュウの結婚式に参列することになり
さらに多くの親戚や友人と交流することを楽しみにしてきた。




これは何っ!・・・・ナタリアが叫んだ
初めてナタリアが来日のとき、強烈な話題となったのは
神社の万字(卍)であった。
明日はもう帰国という前の夜、茨木弁天の花火大会に行って
帰りに寄った見付山公園のお地蔵さんの前で
ウワッツーと怖れおののきの声を上げた。
彼女はそれをナチスの鍵十字と間違えたのだ
すぐに察した私は、違う、違う、これは違うとその形の違いを
説明し、お寺のマークの卍を書いて説明した
その夜は、ドイツの戦略でありながらポーランドにおかれた
アウシュビッツ収容所の悲劇と、三国同盟の間違いを
娘たちとともにナタリアと朝まで語り合った。
1989年、ベルリンの壁が民主を求める市民に打ち破られ
東西のドイツが統一されたのち、自由の風は東欧に吹き荒れ
ソビエト連邦の崩壊へとつながっていった。
ソ連からいくつかの国が独立したころ、ポーランドも
東ドイツとソ連に挟まれた長い間の隣国脅威から脱出する
国の支配下から逃すまいとするソ連はポーランドへ侵攻する
しかし、自由を叫ぶ市民はワルシャワから国の中心部の
チェンストホーバー・ヤスナグラ寺院へとこぞって向かう
武器を持たないデモクラシーの行列を続けた
かくしてポーランドは1991年民主共和国として独立する
日本への出入りが自由になったのも、その後のことである
リリアナ&チェスワフ夫妻
リリアナは心臓内科医、チェスワフは大学教授で弁護士
この大きな家に移ったのはソ連のコムニズム崩壊後で
すべて国有地であった土地を国民に払い下げられたとか
当時政府の高官は悲惨で、国の判事から弁護士へ変わる
リリアナは国立病院の勤務医であるが民間病院は無かった
庭にはリンゴの木 クリスマスツリーに格好のモミの木
食卓にのぼるのは、チーズやソーセージ、にしんの酢漬け
キャベツの入ったウルンスキ、そして手作りのアップルパイ
かつてこの地はコペルニクスやキュリー夫人など、科学と
化学がせめぎ合う優れた学術の土壌を生み出している
芸術ではショパン、パウロ2世は敬虔なカトリックの
思想を伝え、永らくバチカンの主を務められた







庭でとれたリンゴが甘い
8/31
結婚式を行うルブリンへ向け、出発
旅の終わりに、帰ってきたフランクフルトで
ゲーテハウスを訪ねた。
若い頃ゲーテの詩集など読んだがさっぱり意味を
理解できなかったことが思い出される。今は解る。私たちの半世紀と同じである。
“生活、そして自由を与えられる者は、生活、そして自由のために戦う者のみ”:ゲーテ
ポーランドの人々との会話には、命をかけて生活と自由のために戦ってきた精神が流れ、
私の心と融合していく心地よさをいつも感じる。
8月29日(水)~9月9日(日)12日間の旅
フランクフルト空港での迎え




航路 ・JR茨木からリムジンで関空へ
・フィンランド航空で関空からヘルシンキ空港へ
※関空からのルフトハンザドイツ航空ダイレクトは
欠便となり、成田まわりしか飛んでいない
それが9月7日に復活とは!! なんと間が悪い
・乗継便でフランクフルトへ。16時間所要。
小さい写真はクリックしてね
8/29 ナタリアのマンションでディナー



東日本大震災で来日の予定が延期
親夫婦と二組で来日の予定をしていた2011年の春
3.11突如の地震と津波が日本をおそった
それにもまして福島原発の爆発、放射能漏れは
日本を、全世界を震撼させた
日本から外国の人は散りぢりに逃げ去り
列島すべてが放射能に包まれるのかと
その当時、世界の人は思っていたらしい
数年前に癌を患った父のため、来日は当然延期
うちの孫へもこちらへ避難しなさいとメールがくる
実際そのころはどこまで被害が伸びるのか
誰にもわからなかった......。
1年も過ぎ、淋しさがふくらんだときナタリアからメール
弟チェシュウの結婚式に出席せよとポーランドに招待
嬉しいけど、ためらった......しかし、行くことにした
こんな機会はあるもんじゃない
本物のカトリックの結婚式だ~!!
ポーランド訪問記
ドイツ・フランクフルト・ポーランドの旅(8/29~9/9)
風車が遠くに点在する、旧東ドイツ地域を車で国境越え




8/30
朝出発 ハイウエイ8時間の旅は延々と丘また森と続き
遠くには可愛い中世そのままの村がときどき見える
フランクフルトからドレスデンを通り抜ける街道
ブロッツワフへ向けポーランドに入る国境の橋を渡る
EU連合加盟国間は、国境越えもフリーである
国境は川のラインでパスポートチェックなし
懐かしのカトビッツェ・ティヒに到着
両親の待つ、カトビッツェ・ティヒの街はヨーロッパの不況の
影響も感じられない高度成長の真っ只中にあった。
ドイツ資本の大きなスーパーマーケットが進出している。








1997年私が描いたチェシュウはそのとき小学生
1993年夏、日本へ初めて来て、我が家にホームスティした
ナタリアとその家族リリアナ、チェスワフを訪ねる。
これで4度目。彼女の家族や友人も4度我が家を訪れ
この付き合いは20年近くになる。
この度は弟チェシュウの結婚式に参列することになり
さらに多くの親戚や友人と交流することを楽しみにしてきた。




これは何っ!・・・・ナタリアが叫んだ
初めてナタリアが来日のとき、強烈な話題となったのは
神社の万字(卍)であった。
明日はもう帰国という前の夜、茨木弁天の花火大会に行って
帰りに寄った見付山公園のお地蔵さんの前で
ウワッツーと怖れおののきの声を上げた。
彼女はそれをナチスの鍵十字と間違えたのだ
すぐに察した私は、違う、違う、これは違うとその形の違いを
説明し、お寺のマークの卍を書いて説明した
その夜は、ドイツの戦略でありながらポーランドにおかれた
アウシュビッツ収容所の悲劇と、三国同盟の間違いを
娘たちとともにナタリアと朝まで語り合った。
1989年、ベルリンの壁が民主を求める市民に打ち破られ
東西のドイツが統一されたのち、自由の風は東欧に吹き荒れ
ソビエト連邦の崩壊へとつながっていった。
ソ連からいくつかの国が独立したころ、ポーランドも
東ドイツとソ連に挟まれた長い間の隣国脅威から脱出する
国の支配下から逃すまいとするソ連はポーランドへ侵攻する
しかし、自由を叫ぶ市民はワルシャワから国の中心部の
チェンストホーバー・ヤスナグラ寺院へとこぞって向かう
武器を持たないデモクラシーの行列を続けた
かくしてポーランドは1991年民主共和国として独立する
日本への出入りが自由になったのも、その後のことである
リリアナ&チェスワフ夫妻
リリアナは心臓内科医、チェスワフは大学教授で弁護士
この大きな家に移ったのはソ連のコムニズム崩壊後で
すべて国有地であった土地を国民に払い下げられたとか
当時政府の高官は悲惨で、国の判事から弁護士へ変わる
リリアナは国立病院の勤務医であるが民間病院は無かった
庭にはリンゴの木 クリスマスツリーに格好のモミの木
食卓にのぼるのは、チーズやソーセージ、にしんの酢漬け
キャベツの入ったウルンスキ、そして手作りのアップルパイ
かつてこの地はコペルニクスやキュリー夫人など、科学と
化学がせめぎ合う優れた学術の土壌を生み出している
芸術ではショパン、パウロ2世は敬虔なカトリックの
思想を伝え、永らくバチカンの主を務められた







庭でとれたリンゴが甘い
8/31
結婚式を行うルブリンへ向け、出発
旅の終わりに、帰ってきたフランクフルトで
ゲーテハウスを訪ねた。
若い頃ゲーテの詩集など読んだがさっぱり意味を
理解できなかったことが思い出される。今は解る。私たちの半世紀と同じである。
“生活、そして自由を与えられる者は、生活、そして自由のために戦う者のみ”:ゲーテ
ポーランドの人々との会話には、命をかけて生活と自由のために戦ってきた精神が流れ、
私の心と融合していく心地よさをいつも感じる。
2012年10月30日
宙翔そらと8歳、小学3年生の夏
この夏の海は白浜
7月21日(土)~22日(日)

最近とくに忙しく、ほとんどブログを休んでいました。
しかし宙翔そらとの記録はグランマの責任
遅ればせながら、土日利用で書きます。
少々お待ちを
7月21日(土)~22日(日)

最近とくに忙しく、ほとんどブログを休んでいました。
しかし宙翔そらとの記録はグランマの責任
遅ればせながら、土日利用で書きます。
少々お待ちを